今日もとても暑い。夏ってほんと急にくるなと思う。

 

朝、夢の中でずっと吉澤嘉代子の音楽が流れてて、いいbgmだなあと思ってたら、目覚ましの曲だった。

先日、先輩に、「月は淫らな夜の女王」っていうSF小説があって結構面白いですよ。なんて言っていた記憶があるが、それが「月は無慈悲な夜の女王」っていう題名だったのに気がついて恥ずかしくなった。そりゃ「それエロい内容の本でしょ」って言われるよな。

尖っているようで甘いことを言う知り合いに、「あんたは尖っているようで、棘が柔らかいよね」なんて揶揄しておいて、自分を見てみれば、そんな棘さえ出していなくてつまらないなと思う。丸いというのは、安定した形だけど、少しつまらない。四角いものの、壊れやすい角がある危うさに魅力を感じる。それはなんでなんだろう。どこかに壊したい欲求があるのかな。車も今の丸いのよりカクカクして壊れやすそうなやつが好きだし、チョコレートも丸より板チョコが好き。普通のTシャツよりもVネックの方が好き。ドットはあまり好きではない。だから理由はわからないけど好みとしてはそうなんだろうなんだろうなと思う。でも私は。

そういえば話は変わるけど、クラゲというのは、細胞一つで殺傷能力を持つ珍しい生き物らしい。あんな丸くて可愛い見た目をしているのに細胞レベルで棘を持っているのだ。それっていいな。そうなりたいような気がする。静かに波に流されて、ふわふわ漂ってても、いつもどこか棘を隠しているのって、なんだか綺麗だ。孤高の殺し屋みたいだ。きっとクラゲが人気なのは、そういう毒があるからなんだろう。でも、人間でクラゲみたいな人ってのは、人気者ではなさそうだ。そういや昨日一緒に飲んだ教授はクラゲが大嫌いだと言っていた。人それぞれだな。誰か好きでいてくれ。

 

今日は天気がいいけど、何の予定もない。

そろそろ勉強をしなきゃいけないんだろうなと思う。

 

論文読むぞ。

 

 

 

 

 

 

高崎駅に降り立つと何処からか夏の香りがした。

今は実家に向かっている。

 

最近は日が落ちるのが遅くなった。

青と緋が混じった田圃では蛙が合唱していて、空気は怒気を含んで膨張している。そんな景色の中にいると、皮膚の下で血管が動き出しているような、むず痒い気分になる。初夏が一番発狂しそうだ。

 

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そもそも夏には思い出が多すぎる。ボートの漕ぎ手の様な生き方をしているわたしにはちと厳しい。

 

電車の窓は昔を断片的に浮かばせてはまた次のコマに移ってゆく。

夏祭りに奢ってもらったスイカサイダーの変な味とか(一口飲む?っていう口実を作りやすい飲み物)、木造の古臭い駅舎でこっそりキスをした夕方とか、部活帰り辛くて泣いたのを唯一知ってるベンチとか。そんなものを映しては感傷に浸って、初夏の湿気に記憶を溶かす。

この田舎が好きだったなあ、と思う。

 

今じゃもうたまらないけれど。

 

 

思い出を振り切ってどこかに誰かと出れたらカッコいい。新天地でホームを作るのだ。

今の私にここはアウェーで、ホームは何処にもなくて、根無し草の草野球チームだ。そんならそろそろ感傷からサヨナラして仕舞うべきなんだろうなと思う。

 

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目覚ましをかけずに寝たのに8:30に目が覚めた。せっかくの休日だからあ…と思って二度寝すると、あまり見たくない夢を見た。

10:30にまた目が覚めて、えいやっとロフトを降りる。ヨーグルトを食べながらラジオをかけると「人間の臓器を別の動物でつくる実験が行われる」と、「元号が変わるのに際して、過激派による600人規模のデモが行われる」が流れた。なんだか気持ち悪いなと思う。

季節外れのコタツに入りながらぼんやりしていると、ふいに鳩時計が鳴って、家を出なくちゃいけない時間になっていた事に気がついた。電車の発車まであと30分である。慌てて洗面台で髪を洗った。

どうにか間に合う時間に家を出ると、天気が良かった。駅に向かう途中の人道ボックスでは、二人のおじさんが賭け事についての相談をしていた。

電車に乗ると、座席が二つほど空いていて、一番近くの空席にマタニティマークをつけた妊婦さんが座った。もう一つの席はもう無くなっていたので私は立って乗ることにした。そういえばマタニティマークについて姉が言っていた。「あれ付けて乗ると、舌打ちされるんだよね。」やっぱりなんだか気持ち悪いな、と思う。

進行方向一番前の車両で窓を眺めていたら線路の向こうに春が見えた。

線路も人間も御構い無しだった。

 

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先輩から返してもらった漫画を本棚に入れ直すのを忘れていた。部屋の隅で、服屋の紙袋ごと埃をかぶっていた。卒業する直前まで1年くらい貸したまんまだったから、もう帰ってこないかと思っていた。返してもらえてよかったなと思っていたけれど、どうせブックオフで108円で買った漫画だから、今思えば、別に帰ってこなくてもよかったような気もする。

そういや「貸す」ってのは不思議なもので、普段特に価値も見出せないものが、「貸す」ことによって価値あるものと化す。返す、という口約束が、所有をさらに強調させるからなんだろうか。それとも、「貸す」から「返す」までの間、両者は離れられないような気がするからなんだろうか。関係に価値が生まれるのか、ものに価値が生まれるのか。どっちにしても、人間っぽいなと思う。

 

久しぶりにその漫画を読んでみたけど、最後まで読みきれなかった。高校生の時、いっこ上の学年の先輩に借りて、こっそり教室で読んだ時はあんなにドキドキしたのに、もうあの時みたいには読めなかった。当時は漫画の中の少年少女がむちゃくちゃ悪いことをしていると思っていたのに、今じゃもう悪いとは思わないのである。むしろ、ありがちで、陳腐にさえ思えた。

昨日読んだミヒャエルエンデの「モモ」の方がよっぽど今の私には有難かった。

 

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 そういえばドライブに誘われた。私とその人との関係上なんだか不自然な誘い方だった。もう、「ただの友達だよね」って考えられるほど可愛い女の子じゃないから困惑している。鏡の前に立ってどうしようかと悩んでみたけれど、いくら自分と向き合っても剃り忘れた産毛が見えたりするだけで埒があかないので、とりあえず明日の服を決めることにした。いい機会だし可愛くしようと思う。

だがしかし。可愛くなるってどうやるんだっけ、どんな準備をすりゃいいんだっけ。破れてないストッキングまだあったっけ、あったわ。あーここにきて、枯れていた期間が憎い。

悩んだ末、全く着ていなかったワンピースに「可愛い」を一任することにした。ワンピースさまさま、買ってくれたお母さんありがとう。とにかく明日がしのげればそれでいい。頼んだ。ワンピース。

 

それにしても、人のために服選ぶのって、久しぶりだったけどちょっと楽しいな。こういうのが続くのもいいのかもしれないとも思う。でも面倒くさいと思うようになるんだろうなとも思う。

 

とりあえず明日は、まだ楽しみである。

 

 

 

 

 

 

 

 

花見に行きたい。

春色の空気をのみこんで、目の奥が痒くなった。季節は春。花粉症の裏に隠れて、桜の花に媒介される病が町中をおかしている。マスクをしても防げないこの病は、男女間での感染力が強く、自覚症状も薄い。

平安の頃は「恋の病でデッドオアアライブ」これは命にかかわる病気だった。しかし元号も変わろうかという2019年4月。病による致死率は下がったものの、人々の間で、危険意識が著しく低下している。これにはさすがに警鐘を鳴らさざるを得ない。

道を歩けば手を組むカップル、耳をすませば猫の叫ぶ声。おそらく全国的にもパンデミックが起きてるはずなのに、誰も気づいていないのだ。

 

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押しチャリのハンドルを片方持ってくれるような男の子に花見のデートに誘われた。正直まんざらでもなかった。

私もいつのまにか感染予備軍になっていたらしい。

車を運転する彼を見て動悸を覚えた事はある。好きなドラマが一緒だ、なんていう運命のオマケすらあった。しかしてこれは恋なのか。気のせいか。モテ期なのか、発情期なのか。それとも、ただ、桜で錯乱しているだけなのか。

さっぱり分からないものだから、一応「ゴメンナサイ」のラインを打ちつつ、一人家で大量の肉を焼いた。肉とニンニクの臭いには、恋の病を予防する効果があるという。

いつのまにかうっかり浮かされていそうで、それが怖いのだ。

私はまだ足をここにつけていたい。

妄想①

ときどき、他人の今日を考える。

たとえば、タバコが恋人の研究室の助教とか。

 

新学期が始まり、学生の世話に追われて自分の研究がなかなか進まない。深夜まで大学にこもって調べものをし、疲れ果てて帰路につく。今日はやけに寒い。街頭に照らされた白い桜が、風も吹いていないのにはらはらと散り始めていた。

少し小走りで家に向かうと、仮住まいの住宅を白熱灯が映し出していた。冷たいドアノブを引くと真っ暗な自分の部屋が現れる。電気をつけ、脱いだ靴をきちんと靴箱に入れて、小さく「ただいま、」と呟く。

窓際のハンガーに綺麗に並べて干してあるタオルの一番右のものをを手にとって、洗面所に手を洗いに行く。鏡に映った自分の、日に日に濃くなる目の下のクマを眺めて自分も老けたなと思う。

水道の蛇口をひねるとき、右手の付け根あたりにキラリと光る薄いガラスのようなものが貼りついているのに気がついた。手にとって、光に照らすと、それは魚の鱗だった。

そこでふと、今日殺した201を想った。

新潟に来て、初めて卵から育てた魚が201だった。4年間毎朝毎晩エサを与え、体長数ミリだったところから30cmを優に超える大きさまで育て上げた。エサをあげようとすると犬のように付いてくるのが愛らしかった。そのうち感情の機微も何となくわかるようになった。イライラしたり、喜んだり…驚くなかれ彼らにも多少の感情があるのだ。

かつては研究にも大いに貢献してくれたが、四年も経つと年老いて、生殖能力が著しく落ちた。水槽の数からしても使えないオスをこのまま飼っているわけにもいかなかった。

 

決めたのは3日前だった。

 

顕微鏡を覗きこんでいる時、麻酔にかかった201と目が合った。呼吸が出来ず痙攣する身体、しかし麻酔で自由が奪われて逃げることは叶わない。対物レンズに映る黒い目からは徐々に 確実に光が失われてゆく。そこにはきっと、同じようにレンズに拡大された自分の虚ろな目が映っていたのだろう。光が消えるその瞬間まで、ずっと。確かに201は私の目を見据えていた。

 

研究室に配属された学生に「この魚、食べられる種類ですよね。先生は死んだ魚を食べたりするんですか?」と聞かれた。

私は「食べられない。」と、答えた。